適応障害からの365日の顛末

適応障害で休職中。回復へのトライ&エラーと、心地のよい暮らしを手に入れる過程の自分日誌。

他人の視座を借りて自身の不安のナンセンスに気づく。仕事へのスタンスを変えることについて。

先日のこと。

 

知人からfacebookのメッセージで連絡があった。

以前、休職して4週間目、わたしがひどく沈んでいるときに連絡をくれた彼だ。

↓詳細はこちらのエントリーから

 

彼からの連絡は、それまで「うつ病」だと診断されていたけれど、新しい病院では「うつ病ではないかもしれない」と言われ、カウンセリングを受けていること、そして「EMDR」というあたらしい治療法を試していることなどが書かれていた。

彼なりのわたしへの配慮なのだろう。前回のやり取りでカウンセリングに興味を持っている旨を伝えていたので、それに絡める形で連絡をくれたのだと思う。「以上、カウンセリングの途中共有でした」と彼からの連絡は締められていた。

 

 

わたしも簡単に自分の診察の様子や、ここ最近の回復の進捗などを返信した。

主治医からは、このまま生活のリズムが維持できていれば、通勤訓練をスタートできるだろうと言われているので、もうじき通勤訓練が始まるかもしれないこと。

でも、以前と同じ会社で、同じように働けている自分の姿がイメージできずにいることなどを綴った。

 

 

顔文字など交えて、軽い調子で返信したが、実は「以前と同じように働けている自分の姿が全くイメージできない」のは、ここのところの大きな気がかりの一つで、わたしにとっての不安のひとつだった。

考えすぎると苦しくなるので、その不安とは少し距離をおいていた。そこに不安がいるのは知っている。知っているけど、じっとは見つめない、それ以上は距離を詰めない。「そっか、わたしは前と同じように働けるかどうかが不安なんだな、うん。不安なんだ、わかった」とだけ思って、つきつめないように意識していた。

 

不確定な未来に対する不安は、正直どう取り扱ってよいかわからない。そもそも不確定なんだから、現時点で真剣に取り扱っても取り越し苦労になりかねないとも思う。

腫れ物を触るような人事の対応、「寛解」の意味を「完治」だと考える上司から振られる以前と変わらぬ業務量。不安要因は数えればきりがないが、それは今のわたしが心配したところで、どうしようもないことだ。

だから、その不安は「ただそこにいる」と受け入れて、今後訪れるかもしれない困難、ある種のリスクとして認識しておくしかない、と考えていた。残念ながら予測した困難が現実になり、わたしのキャパシティを超えそうなときには、オーバーフローする前に「申し訳ありませんが、わたしにはそこまではできません」と伝える。これまで通り「これは試練だ、タフな状況だけれど、やってみるか」と自分を鼓舞してまで引き受けることは避ける。そのイメージをするくらいで十分だろう。

 

そう思っては努めて距離をおいているのだが、不安を抱えながらそれを完全に忘れ去るというのも、なかなか難しいもの。心から消えてなくなっている瞬間もあるのだが、ふとしたときに「あなたが知らんぷりを決め込んでいても、わたしはここにいるんだからね」と意地悪く微笑みながら不安が疼き、こころを占拠しようと膨らみ始めたりもする。

喉に魚の小骨が刺さったときと少し似ているかもしれない。違和感を忘れていられる瞬間もあるけれど、何かの拍子で必ずジクジクと痛みだして小骨の存在を思い出す、そんな感じだ。

 

 

話をもとに戻す。彼とのやり取りだ。

復職に関する不安を吐露したわたしに対して、彼自身が奥様から言われた言葉をシェアしてくれた。

「昔と同じに戻ったら、また病気になっちゃうでしょ」

なんでも、彼自身が「昔みたいに働いて〜」というような発言をした際に、奥様から返された言葉らしい。

 

ハッとした。本質を突いている。

仕事との向き合い方をこれまでとは変えていったほうがいい、これまで通りのままだと破綻してしまうと考えているわたしなのに、前と同じ働き方がイメージできないことを不安に感じること自体が、ナンセンスだ。

あれだけ、復帰した際には仕事に没頭しないように、仕事とは適度な距離を保つように、とこころで繰り返し唱えてきたのに、自分でこの矛盾には全く気づけていなかったのだから、笑ってしまう。

 

彼に、「ありがとう、心がずいぶんと軽くなったよ。それにしてもあなたの奥さんの返しは本質を突いているね」と返信すると、程なく奥様にまつわるその他のエピソードが届き、微笑ましい気持ちで目を通す。

 

 

2度ほど、食事の席で彼の奥様にも会ったことがある。物静かでおっとりとしていて、盛り上がる会話の輪の中に進んで入ってくることはしない人だった。彼の知人を中心とする集まりだったこともあるのかもしれない。その場の空気から少し距離をとって、それを眺めて、微笑んでいるような人。

彼女は、冗談を交わしてはケラケラ笑い合うわたしたちのやり取りの中に、全く違うものを見ていたのかもしれないな、などと振り返って思った。

 

 

ときどき、他人にはとりとめもないことに思えるような自身の考えに執着して、その意固地なスタンスで損をしているように見える人がいる。岡目八目ってやつなのかもしれない。当人には自覚はないのだけれど、他人だからこそ気づいてしまう。そして、「その執着から解放されれば、もっと自由になれるのに。もっとこの人の良さが浮き彫りになるのに」と思う。

ほどほどの距離の人ならばいざ知らず、身近な人、自分が好感を持っている相手だったりするも、その人を執着から解き放てるようは言葉はないだろうか、と考えたりする。

例えば、「わたは太ってるから」という女の子に、「太ってなんかないよ」と言うのではなくて、「太ってたっていいじゃない」というような言葉。小難しいロジックとは程遠い簡潔さで、それなのにさっと視座を交換してしまうことのできる、執着の根本となるものも含めてすっぽり包みこめる、柔らかい毛布のような言葉。

彼女の言葉はまさに、柔らかい毛布だった。

 

 

不安はできるだけ、口にしないように。

これまで、そう思ってきた。口に出してどうなることでもないのなら、尚更。聞いてくれる人の時間を奪うに値する内容でないのならば、言うまでもなく。口にするときには、少なくとも慎重に相手を選ぶように努めてきた。

 

でも、今回ぽろりと吐露した不安はちゃんと彼と彼女の毛布に拾われて、全く消えるとは言わないまでも、ずいぶんと薄れた。

自分だけでは包みこむ術のない不安を抱えたときには、他人の視座を借りるのも有効なのかもしれないと思うと、不安を口にすることへの抵抗も少し減った気がした。

 

 

それにしても。

仕事に対する考え方の変更は、なかなかタフで根気がいるものなのかもしれない、と思う。

 

20代の頃からずっと仕事に没頭してきた。もちろん、たくさん遊びもしたけれど。仕事に投資した時間は自分の筋肉になって、いつか必ず自分を助けてくれる日が来ると信じて、ファイティングポーズをとるように努めてきた。

継続したポーズは、その人のスタイルやスタンスになる。

以前のような仕事への執着は捨てようとこれだけ心に決めても、結局のところ十数年の時間を積み重ねて自分に浸み込んでいる仕事の捉え方やスタンスは、そうそう簡単変わるものではないのかもしれない。

 

「変更」なんてなまやさしいものではなくて、「矯正」のように時間をかけてゆっくり、じっくり向き合わなければいけないものなのかもしれないな、と改めて思った。