365日の顛末

こころとからだの健康、不妊治療、キャリア。試行錯誤の365日の記録。

実家、子ども、産む・産まない

ここ数日間、いつになく気分が落ち込んだ。

まるで、休職したての急性期のような落ち込み方だった。

わたしは適応障害で休職するのはこれで2度目だが、初回の休職時にもこんな揺り戻しはなかったため、ひどく動揺し、突発的に病院で診察を受けたりもした。

 

その落ち込みについてはさておき、もう一週間も前になるけれど、実家に帰ったときのことを書こうと思う。

 

 

先週の木曜、金曜と一泊二日で実家に帰った。

実家は都内のわたしの住まいから電車を2回乗り継いで1時間半ちょっと。最寄り駅からは車で15分かかるので、ドア・トゥー・ドアだと2時間ほどの距離だ。

最寄りのコンビニまでは車で出かける、そんな田舎だ。

 

ちょうど同じタイミングで、妹も娘二人を連れて実家に帰っており、2歳半と生後6ヶ月の姪の笑顔に癒された。

 

 

父の畑

父は自宅近くの空き地を借りて、自ら開墾して畑にしている。

そこで季節の野菜を育てている。もともと園芸や植物栽培が好きで、わたしが小さな頃からバラやクレマチスを大事に育てていた。

一時期、仕事の都合で広島に転居した際に、鉢植えはもちろんのこと、自宅を貸し出すことになったために地植えにしていた植物もほとんどを処分してしまったが、自宅に戻ってきた今、実家の壁面の一部は蔓ばらに覆われ、庭のそこかしこに植物の鉢やプランターが置かれている。

 

畑を借りるようになってからの父は野菜や果樹の栽培にご執心の様子で、年末に実家に帰省した際には、「農学部に行きたい」と口にしていた。

冗談か本気かは知らないが、「もうこれから勉強してもセンター試験には間に合わないよなぁ」と言う父に、「その年になったら、浪人もストレートもないんだから、今年は見送っても、来年受験すればいいじゃない。1年後だったら準備期間もまだまだあるわよ」などと返した覚えがある。

 

ゴールデンウィークに帰省した際には、父の畑で取れた新鮮な絹さやとスナップエンドウ、サニーレタスを食べさせてもらった。夫はその野菜の味の濃さと甘さに驚いていた様子だったが、今でもときどき思い出したように「実家の絹さやとレタス、おいしかったなー」「あれを毎日食ってたら、スーパーで売ってる野菜なんて食えなくなるよな」と口にする。

 

↓父の畑。家庭菜園というレベルを越え始めている。

 

↓ゴーヤ。

 

↓豆。なんていう種類かわからないけど。

 

↓ピーマンも。

 

↓ピーナッツの花。こんなに可愛らしい花をつけるなんて知らなかった。

 

↓ミニトマト。緑色が締める面積の多い畑の中で、鮮やかな赤色が一際目をひく。

 

↓お茄子。

 

↓きゅうり。

 

↓きゅうりの花。”キュウリ”っていう剽軽な音からは意外に思えるほど可憐な姿。

 

↓花の根元に赤ちゃんキュウリ。なるほど、こういう風にキュウリって実るのね。

 

 

↓まだまだ成長中の西瓜の赤ちゃん。

 

↓これは西瓜の花だったかな?

 

↓葱。なかなか渋い野菜も育てている。

 

↓白くてぷっくりと膨らんだ蕾。これはなんの花でしょう?

 

↓全体像。まだまだ樹高は小さいけど…

 

↓正解は金柑でした!下手っぴな父の字がかわいい。

 

↓プランターで育てられていた、マリーゴールド。よく畑のそばにマリーゴールドが植えられているのを見るけれど、マリーゴルドって確か、大根とか人参とか、土の中で育つ野菜を食害する線虫を防いでくれるコンパニオンプランツなんだよね。だから、畑の隅っこに直接植えれたほうがいいのに、なぜかプランターに植えられてました。まぁ、役に立たなくてもきれいだからいいんだけどさ。

 

小学校低学年の頃だったろうか。

母の実家に宿泊した際に食べたとうもろこしは、わたしの中で一番美味しいとうもろこしとして記憶に刻まれている。祖母が畑で作っているとうもろこしをわたしと妹の目の前で捥いでくれて、それをグツグツを沸騰した鍋に少しだけ塩を加えて茹でたもの。まだ冷める前のとうもろこしを「熱い、熱い」と言いながら、妹と競うように頬張った。

もちろん、それまでにもとうもろこしを食べたことは何度もあったのだが、あまりの甘みの強さに全く別のものを食べているんじゃないかと思ったほどだ。「すごい甘い」「美味しい」と次のとうもろこしに手を伸ばす度、祖母が「捥ぎたてが一番、美味しいからねぇ」と笑っていた。

それ以降、とうもろこしを食べる度に、祖母にとうもろこしを食べさせてもらった夏を思い出す。あの味を超えるとうもろこしには一度も出会えていない。

 

夏が来て、実家でとうもろこしを食べる度に、わたしは繰り返しその話をする。呆けた老人みたいに、繰り返し。

そのエピソードは父にも刷り込まれたのか、ゴールデンウィークに帰省した際、父は姪に野菜の収穫を体験させたいのだと言っていた。「夏になったら姪の好きなとうもろこしも収穫できるように、今から苗を育ててるんだ」と父は得意気に言っていた。

 

そして、今回実家に帰ったら、とうもろこしはわたしの背と同じくらいの高さになり、すでに収穫時を迎えていた。

 

↓とうもろこし。

 

↓ 収穫する母の手元を真剣な目で見つめる姪っ子。

剥いた皮を畑の隅にある干し草の山に放り投げる母に「かわは、すてちゃうの?ここにあるのは、ゴミなの?」と。ある程度量が溜まったらコンポストに入れて、土にするんだよ、ということを2歳半の子どもにどのように伝えるのがよいかと考えを巡らせているうちに、姪っ子の興味の対象は別のものに移る。

 

↓まだ鋏が扱えないので、収穫するのは父と母。収穫した野菜をかごに入れる役目を仰せつかった姪は、とうもろこしやらキュウリやらを運んで容器に入れる度、得意げな顔をする。

 

↓家庭菜園ならでは、虫さんも紛れてる。

実家で取れたとうもろこしを分けてもらって、東京に戻ってからとうもろこしご飯を炊いたら、素朴な甘みがとても美味しかった。レシピはこちら↓

 

 

父の畑の隅、まだ耕されていない地面には雑草が生えていて、そのエリアに足を踏み入れると一歩進むたびにバッタが数匹飛び跳ねる。「あー、むし、つかまえて、バッタ」という姪のリクエストに答えて、バッタを捕まえて両手で包み、それを姪の顔の前でゆっくり開いて見せると、満足そうに笑う。

ガラス細工のように細くて長い後ろ足を十分に胴に引き寄せ、わたしの掌から足元の草むらに大きくジャンプする虫の姿を見て、その場でピョンピョンと飛び跳ねながら「バッタさん、いっちゃったねー」と姪。

 

あたりには、東京の路地裏なんかで見かけるものと比べると驚くような大きさの猫じゃらしが生えている。足元に目をやると、ところどころに子供の頃に慣れ親しんだ草花が生えている。小さい頃は暇があると図鑑を眺めて過ごしていて、近所でよく目にする雑草の名前はほぼ記憶していたように思うのだが、今となっては思い出せない名前のものもちらほら。

 

↓立派な猫じゃらし

 

↓これなんて名前だっけ?思い出せないのが、なぜかちょっと悔しい。

 

↓ツユクサ。これ集めて色水作ったなー。それで、だいたい、服にシミを作って帰ることになるんだよね。

 

↓バッタがそこかしこにいる。

 

↓茶色いのもいる。

 

↓家の裏にはイトトンボも。イトトンボ、だよねこれ? 数年ぶりに見た気がする。東京じゃ、シオカラトンボと赤とんぼくらいしか見かけない気がする。

 

↓一時期、家でハワイアンばかり聴いている母の姿を見て、父が買ってきたハイビスカス。あれからもう20年弱経つと思うけれど、今年も堂々と咲き誇っていた。

 

小さな口を精一杯広げて、小さな前歯を大きなとうもろこしに突き刺して頬張る姪の姿。満面の笑みの父。

姪は数年後、もしくは大人になってから、夏になる度にこのとうもろこしの味を思い出したりするのだろうか。笑顔の父はどんな想いで、姪を見つめているのだろうか。

 

そんな風景を眺めながら、なんとはなしに、世代を受け継いでいくこと、受け継がれていくべきもの、をぼんやりと想った。

 

 

叔母とわたし、叔母のわたしと姪

姪はわたしのことを、名前に「ちゃん」付けで呼ぶ。

姪が1歳を迎える頃に、妹に「お姉ちゃんの呼び名、どうする?お姉ちゃんはこの子に何て呼ばれたい?」と尋ねられたことがあった。もう40手前だし”おばさん”が妥当なのだろうか。

わたしは自分の叔母のことを、名前に”おばさん”をつけて”○○おばさん”と呼んでいた。

 

わたしの両親は自分の兄弟とはわりと淡白な付き合いをするタイプで、叔母との関わりは盆と正月に祖父母宅に帰った際に、少し顔を合わせる程度だった。両親ともに末っ子だったこともあって、従姉妹の中でもわたしと妹は最年少。叔母や叔父は久しぶりに見る幼子を可愛がってくれていたが、「子どもの子どもらしさ」を求められるのがとても嫌だった記憶がある。そんな親戚を前にして、幼稚園生の頃には嬉しくもないのにはしゃいだり、小学校にあがる頃には、子どもらしい”自由な発想”を演じるようになった。

 

唯一、いま会うことができるのであれば、会ってみたいと思う叔母がいる。父の姉だ。

20代のいっとき、新卒で入社した大阪の会社を退職して東京にある企業に転職したばかりの頃、平日は実家から2時間弱かけて会社のある六本木に通い、土日も遊び回るという生活をしていた。そんなわたしの姿をみて、ふと「姉貴に似てるなぁ」と父が言い出した。

「ふうん、どの辺りが?」とたずねると、「後姿が。あと、いつも動き回っているところも似てる」という。 へぇ、後ろ姿がねぇ、といいながらソファーに腰を下ろすと、 母も「似てるわよねぇ」と頷く。「思ったことをポンポン言って、 口が達者なところもよく似てるわ」と笑っていた。もう10年以上も前の話だ。

 

とはいっても、わたしはその人をよく知らない。 彼女に関するわたしの記憶といえば、 小学1年生の頃に新潟にある叔母の家で一泊したときのまま、止まってしまっている。

 

叔母は父方の家系の皆がそうであるように比較的大柄だった。

当時にしては珍しく、髪をかなり明るい茶色に染め、 (大学時代に髪を金髪寸前まで明るくしたときにも、「姉貴のようだな」と父に言われた) かなり主張の強い色の口紅をつけていたような気がする。

従兄弟の中で最も年少のわたしと妹は、 小さなお客様として可愛がられ、夕飯に添えられたピラフには従兄弟のお姉さんと叔母の合作の、楊子に紙を巻き付けたフラッグが立てられた。その演出はわたしたち姉妹の心を踊らせ、作為なくキャイキャイと子どもらしくはしゃいだように記憶している。そんなわたしたち二人の姿を見て、叔母の不思議な色の唇が豪快に笑った。

叔母は、幼いわたしたちからみてもパワフルで頼もしい反面、 近寄った者のエネルギーを吸収してしまう魔女のように思えて、 少し怖かったのを覚えている。

 

帰りがけ、叔母が綺麗にラッピングした包みをわたしと妹に手渡してくれた。

家へ向かう車の中で包みを開けると、 おそらくは叔母が働く下着屋の商品なのだろう、 鮮やかな赤とターコイズブルーのパンツが一枚ずつ入っていた。 当時、サンリオか何かのキャラクターの絵がお尻についている 白いコットンのパンツしか、パンツとして認識できなかったわたしと妹は 鮮やかな赤のほうを「キン肉マン」と呼び、ターコイズブルーのほうを「テリーマン」と呼び、 車の中できゃいきゃいと笑い声をあげた。

わたしの中にある生きた叔母の記憶は 明るい茶色の髪の毛とあの唇の色、 ピラフに立てられた旗と、 派手なパンツに凝縮され、 彼女が実のところどんな人だったのかは、 全く知らないのだ。

 

叔母に似ていると言われた当時、「叔母さんってどんな人だったの?」と父にきくと、 男兄弟の中、唯一女だった叔母は 末っ子の父のことを気にかけて、 可愛がってくれていた、と答えた。

「そういう主観的な情報ではなくて、客観的にみて、どういう人だったの?どんな食べ物がすきだったとか、何が得意だったとか。」とたずねると、「小さい頃は音楽が好きだった。あまり上手くない歌をよく歌っていた。お転婆で外で走り回り、よく一緒に遊んでくれた。高校時代はテニスが上手で、よく日焼けしてたよ。で、大学時代はスキーにはまってしまって、冬になると毎年、山にこもっていた。大学を出ると、小学校の先生になった。小学校の先生としてしばらく働いた後、雪山で出会った義兄さんと結婚した。」と。 「パキパキした人で思ったことはすぐ口に出す、主張もする、よく遊ぶ、よく食べる、よくふざける、ふざけてたと思うと突然、真面目な話をする。動き回る、あれもこれもしたがる、そっくりだ。」と、満足げに並べ立てて、父が笑った。

 

確かに当時のわたしは歌が下手な割によく鼻歌を歌っていたが、 テニスは体育の授業でしかしたことがないし、スキーは滑れない。寒いのは苦手なので、雪山に籠りたいなんて考えたこともないし、教師という職業につく人間は、今でもたいがい苦手だ。変な色の頭をしていたこともあったがいまはほぼ黒髪だし、個性的な色の口紅には今までのところ縁がない。子どもころは思ったことはすぐ口に出すほうだったが、社会の波に揉まれてか最近は口を噤むことも覚えた。その良し悪しはさておき。

 

とにかく、父や母に似ている、と言われると どんな人だったのかがとても気になってしまった。 会って確かめたいが、叔母はもうだいぶ前に他界して、その願いはもう叶わない。

もし仮にその人に会うことができるのなら、”叔母”という関係性にとらわれず、その人を名前で呼んで、ゆっくり話を聞いてみたいとなんとなく思った。

 

自分が唯一好きだった叔母を名前で呼びたいと思ったことに加え、姪とは年齢や続柄云々でなく、対等な人間同士として付き合えたらうれしい。物心がついたころ、フィーリングが合えばいろいろ話すこともあるかもしれないし、合わなければそれなりの距離をとってもらって構わない。少なくとも、わたしの前で、子どもらしい子どもを演じる必要はない、そんな関係性がいい。そういった想いから、妹から尋ねられた呼び名については、「ふつうに、名前で呼んでもらおうかな」と返事をした。以来、妹は姪に対してはわたしのことを名前に”ちゃん”付けで呼び、それに従うようにして姪はわたしのことを”○○ちゃん”と名前で呼ぶ。

そのわりに、姪と接する際にわたしが自分のことを「おばちゃん」と言ってしまったり、妹が「お姉ちゃん」と呼んだりするので、ときどき混乱した姪がわたしを指差して「これ」と言ったりする。

相対的な関係性の理解は、2歳半の子どもにはまだ難しいらしい。

 

 

姪、2歳半の好奇心 

姪は好奇心の塊だ。

 

夕方、ランニングのために着替えるわたしに「おきがえしてるの?○○ちゃん、おでかけするの?」と尋ねる。「かけっこしてくるんだよ」と答えると、不思議そうな顔で「ふうん」と言う。

 

姪は会うたびに、わたしのイヤリングに興味を示す。ネックレスにも。

外そうとすると、目を輝かせながら「それ、なあに?」と近づいてくるので、その度に「つける?」と尋ねてみるが、「いや」と拒否する。

ただ、それをつける”仕組み”には興味があるようで、「どうやってつけるの?」と必ず質問される。金具の部分を指差して、つけ外しの仕方を見せてやったあと、外したアクセサリーを手渡すと、姪は自身に着けようとするわけでもなく、「これ、ここに置いておくからね」と、テーブルの上に並べて満足気な顔をする。

 

ランニング後、一風呂浴びて出てきたわたしが、オイルとクリームを足に塗りながら、張ったふくらはぎをマッサージしてると、「○○ちゃんは、なにしてるの?」と近づいてくる。 「それ、まいにちぬるの?」と尋ねる姪に、「本当は毎日塗ったほうがいいんだと思うけれど、面倒くさいから毎日は塗ってないんだ。ときどき、気が向いたときだけね」と答えると、回答の内容を理解できなかった姪は、一瞬ぽかんとした顔をした後、夕飯の支度をする母がいる台所に駆けていった。

 

姪は夕食時にパックに入った牛乳を飲む。乾杯をするのがすきで、「かんぱーい」と言いながら、牛乳パック持った片手をこちらに伸ばしてくる。母と妹はポカリスエット、父とわたしがビールの入ったグラスを掲げて、それに応じると、満足げににっこりと笑う姪。

「ばあばは、なにのんでるの?」と聞かれた母が、「これはね、ポカリスエットよ」と答える。キョトンとした表情の姪に「大人のジュースだよ」とわたしが説明すると、父がビールを指差して「こっちも大人のジュースだぞ。麦ジュースだ」と笑う。

「○○もね、おとなになったら、おとなのジュースで、かんぱーいってするのー!」と姪。2歳半にもなると未来時制が使えるのだ。すごい。

 

酔って眼鏡をどこかに置き忘れた父が、眼鏡がないと騒ぎ出すと、姪は「おじいさんのメガネ、どこいっちゃったんだろうねー」と言いながら、部屋を行ったり来たりする。一緒に探す姿に、2歳半でも他人の探し物を手伝う思いやりの心があるんだなぁ、と驚く。

 

一日目の夜、病院で処方された薬を、包装フィルムから取り外して飲もうとしているわたしに、「○○ちゃん、"おすくり"のむの?」と聞く姪。妹も幼い頃”おくすり”と言えずに、何度正しても”おすくり”と繰り返していた。

「そうだよ、”おくすり”だよ、これは夜のお薬。」と答えながら、水をグラスに注ぐわたし。「○○ちゃん、”おすくり”のむの、おなかがいたいの?」「違うよ」「かぜ、ひいちゃったの?」姪は、腹痛や風邪を引いたときくらいしか、薬を飲んだ経験がないのかもしれない。

「ううん、これをのまないと、調子が悪くなっちゃうんだ。これはね、こころが元気になるお薬なの」そう言って、グラスの水と一緒に薬を飲み込んだわたしの姿を確認して笑って、「○○ちゃん、ちゃんと”おすくり”のめたねぇ」と姪が口にする。

おそらく姪が薬を飲んだ後に、妹はいつもそうやって声がけしているのだろう。妹の眼差しのあたたかさが、姪の振る舞いから透けて見える気がした。 

 

帰省は、わたしにとっては久しぶりの長距離移動だった。その心地よい疲れと相まって夜の薬は覿面に効いて、スコンと眠りに落ちた。

が、姪は派手に寝返りを打つ。びっくりするぐらい、縦横無尽に、2回転したりする。

その振動で目を覚ましたときに、蹴り飛ばされたタオルケットを姪のお腹に掛け直したり、うなされている様子のときには肩をゆっくりとしたリズムで撫でてやったりした。

 

姪、生後半年の警戒心 

生後半年の姪は、初めて連れてこられた実家に混乱し、初日は大泣きだった。

見慣れない天井、見慣れない景色、知らない大人たちに囲まれる環境。おそらく、姪にとっては耐え難いまでの緊張を強いられる環境だったのだろう。

到着して数時間はおとなしくしていたのだが、姪の乗ったバウンサーから他の人間が誰もいなくなった数秒後、姪の正面に父が現れたのを機に、堰が切れたように大泣きし始めた。

妹の家で会ったときは、目が合うとニコリと目を細めて笑い、声をかけると何を言っているのかわからない言葉にならない音を発生し、抱き上げるとご機嫌そうにニコニコとこちらを見上げる。なのに、わたしがあやしても泣き止むどころか、泣き声は激しくなるばかり。

一度大泣きすると、妹を除いて、誰が抱き上げてあやしても一向に泣き止まない。むしろ鳴く声は一層大きくなり、緊急事態を知らせるサイレンのように響く。ただ、妹が抱き上げて数秒すると、パタリと泣き止むのだ。母親のちから、を思い知った。

「すごいね、やっぱり母親だと泣き止むんだね、わかるんだね母親だって」と思わず口にすると、「まぁ、ずっと一緒にいるからねぇ、おなかにいるときから一緒だもんねぇ」と抱きかかえた姪を揺らしながら、妹が答える。

 

「おなかにいる時から一緒」か。

自分じゃない誰かを自分の体が包んでいる、おなかに自分以外の誰かが住まわっている。宿すという言葉通り、自分の肉体が誰かの住まいになっている状態。それはどんな感覚なんだろう。

しばらくして落ち着いた様子の姪と目を合わせると、姪は目をそらしてしまう。そのくせ、視線を外すとこちらをじっと見つめて、「この人は敵か味方か、自分に危害を加えないか」を図っている様子だ。

 

↓姪はわたしの指を掴むと口元に持って行き、咥えようとしたり、舌でベロベロと舐めまわそうとする。妹が言うには、口内の感覚が一番最初に発達するらしく、まだ手の触覚よりも口内の感覚の方が鋭いため、なんでも口に入れて感触を確かめようとするのだとか。へー。子どもがいないわたしには知らないことばかりだ。

 

↓ちっちゃい足。こんなにちっちゃくって、まだ歩けもしないのに、最初から爪がついてるなんて不思議。後から生えてきてもよさそうなもんなのに、なんで最初から生えているんだろう。それにしても赤ちゃんって足の指長いよね。足の全体のサイズと比較すると明らかに指が長く感じるんだけど、みんなそうなのかな。

 

夕方になるとようやく姪の警戒は解けたようで、顔を近づけるとわたしの目を見て笑ってくれるようになった。どうやら「こいつは敵じゃない」と判断してもらえたようだった。

父や母より一足先に心を開いてもらえたことに得意な気分になったわたしは、姪を抱き上げた。特に抵抗するでもなく気持ちよさそうにしている姪の重さを両腕に感じながら体を揺らしていると、2歳半の姪が”ねねちゃん”という赤ちゃんの人形を抱えて側にやって来た。わたしの顔を見上げては、ニヤニヤ笑いながら真似るように人形を揺らしている。

「あら、ネネちゃんも抱っこなの?」と尋ねると、「うん、でもネネちゃん、もうねむるんだって」と言って、人形をあやすのに飽きた姪は布団の上に人形を置きに駆けて行った。

 

わたしの腕の中には、腕から下ろすとぐずり出すかもしれない赤ん坊がいる。気まぐれに泣いたり、笑ったりする、小さなひと。本人にしたら気まぐれなわけではなく、一つ一つに文脈があるのだろうが、わたしにはその全てを察することはできない。

それを理解できないことに対する苛立ちを、腕の中の姪のぬくもりと柔らかさと乳児特有の優しい匂いが、ゆっくりと解いていく。

次第に眠そうな表情をするようになった姪を抱いたまましばらく揺らしていると、姪は瞼を閉じて寝息を立て始めた。眠った赤ん坊は布団に横にした途端に目を冷ます。どこかで聞きかじった知識を思い出し、そぉっと、そぉっと、息を潜めて姪を布団に下ろした。瞼が閉じられたまま、規則正しく呼吸をしているのを見て、ほっとため息をついてみたりした。

 

 

産むという選択、産まないという選択

わたしの真似をして人形をあやす、2歳半の姪の姿を見た母が、小さい頃のわたしも同じように人形を抱えて、妹をあやす母の真似をしていた、と言った。何のことはない、いまのわたしがしているのも「真似事」だよ、だって自分の子どもなわけじゃないもの、と頭の中で思ったけれど、言葉にするのはやめた。

 

母は「子は親を見て育つなんて言うけど、子どもと一緒に親も育つのよね」と言う。

わたしは産んで育てたことがないから想像だけれど、子どもを育てることは「子どもの視点で改めて世界を覚え直す」ことなんじゃないかと、昔から思っている。知らぬ間に身体に染み付いてしまった既成概念の外から、ただまっすぐに素直な眼差しを向けてものごとと対峙すると、世界はきっと新しい驚きに満ちているんだろう。

 

わたしは、控えめに言っても子どもが大好きだ。大人と子どもが入り混じるような場では、なぜか子どもに好かれる。わたし自身が子どもが好きで、ちょっかいを出したいオーラを滲ませているからかもしれない。もしくは、精神年齢が幼くて、子どもから見ても「あいつ、なんか自分と同じ匂いがする」と感じるところがあるのかもしれない。

いつか機会があれば自分の子どもを産みたいとは思っている。そう思ってるくせに、煙草がやめられずにいるわたしが煙草を咥える姿を見る度に、母は「また、煙草なんて吸って。子ども産もうと思ったら、やめなきゃ駄目なんだからね」と繰り返す。

「そうだよねぇ。そうなんだよー。それはわかっているんだけれど、ねぇ。」と言って、わたしは口を噤む。

 

そうなんだよ。子どもを産むのだったら、煙草は辞めたほうがいいって知ってる。でもね、わたしは本当に子どもを産むだろうか。産めるのだろうか。仮に、産めたとして、育てる覚悟があるのだろうか。

 

20代後半の頃、30代前半の頃のわたしは「子どもを産む未来」をもっと切実に望んでいたように思う。

その時々に彼氏はいたが、その人の子どもを産みたいとは思えたことはなかった。でも絶対にいつか子どもを産みたい、と強く思っていた。そして付き合っている人と別れるたびに「卵子冷凍保存」などと検索した。いつか産みたい状況が来た時に、自分の身体の事情で産めなくなるのは嫌だと思ったのだ。選択肢はなるべく多いほうがいい、と真剣に思っていた。

もちろん、いまでも子どもは大好きだ。幸いにもこの人の子どもを産んでもいいと思える人と結婚できて、少なくとも環境は整っている。年齢を考えたら、悠長なことは言っていられない。なのに、産みたいと心の底からは思い切れていない自分がいる。

 

「案ずるより産むが易しだから。考える前に産んじゃえばいいのよ」「親がなくても子は育つんだから。子どもってたくましいのよ。そんな気に病むほど神経使って育てるもんじゃないし」と言う人もいる。

 まともに育てられるだろうか。子どもを宿すことで、そして生まれて責任を負うことで、大きく変わるであろう暮らしに適応できるだろうか。適応障害で休職しているにもかかわらず、この期に及んで仕事のことも頭をよぎる。

 

でも、そういった不安とはちょっと違う類の疑念が、ときどきわたしを襲うのだ。

わたしは子どもが欲しいんじゃなくて、わたしを絶対的に必要としてくれる存在が欲しいだけなんじゃないか。

決してそんなんじゃない、わたしはただ子どもが欲しいのだ、子どもを愛し育てたいのだ、と言い切れない自分に苛立ちを覚える。自分の身勝手さが心底、恐ろしくなる。

そうじゃない、と胸を張っていえるようになるまで、子どもを産んではいけない気がする。もしくは、そんな考えに思い至る前に、子どもを産んでおくべきだったのかもしれない。

 

でも、待てよ。わたしがそんなに思いつめたところで、子どもはそもそも一人で作って育てるものじゃないのだ。夫の考えだってあるのだし、彼はそんなに子どもに執着がないようだし。

そんなことを思っていたら、数日後、それは唐突に、そして図ったように、夫と久しぶりに「子ども」について話す機会がやって来たのだ。

 

(長くなったので、続きは気が向いたら後日書くことにする。)