適応障害からの365日の顛末

適応障害で休職中。回復へのトライ&エラーと、心地のよい暮らしを手に入れる過程の自分日誌。

やりたいこと優先で日々のルーチンを怠ったのをきっかけに、「没頭」や仕事への向き合い方について考える。(休職7週目の反省)

休職して丸7週間が経過した。

 

ここ最近は以前からすきだったことの一部には興味・関心を持てるようになってきている。(でも、まだ読書はあまりする気が起きないのが、個人的な気がかりではある)

例えば、植物の植え替えをしたりとか、ちょっと出かけた先で目にしたものに関心を持ち、新しく何かをやってみたいと考えたりとか。

 

そういったことを、やりたいことリストに加えてみたことを、先日のエントリーに記載した。

 

やりたいことが増えてくると、それはそれで問題が起きる。

他の人はそんなことにならないのかもしれないけれど、アホなわたしは優先順位を誤って「やりたいこと」に没頭し、「やるべきこと」つまり日々のルーチンがおろそかになった。

 

 

 

やりたいことがあること自体は幸せなこと

気力や意欲が回復して、やりたいことが増えること自体はとてもいいことだと思う。

やりたいことリストを眺めているだけでも、「何かをやりたいと思うまで回復したか、あのとき『いっそ、この世から消えてしまいたい…』と思っていたわたしに、『数週間後にやりたいことがいろいろ出てくるから、そんなこと考えなくていいよ』って教えてあげたい」と思えるし、なにせワクワクする。

 

やりたいことに集中している時間は不安を忘れることができるし、適応障害は集中力が著しく落ちるので、そもそも何かに集中できるようになったことは回復の証だと思う。

やりたいことが達成できれば、さらに自分の自信にも繋がる。

 

でも、夢中になりすぎるのは考えもの

達成できると気持ちいい、自分を褒めてあげたくなる、その気持ちを味わいたいがために、日々のルーチンタスクをこなすべき時間を「やりたいこと」に使うようになってしまった。これでは、本末転倒である。

 

以下、自分の備忘として夢中になったことを記載するけど、適応障害に関する情報を求めている方には直接関係しないお話なので読み飛ばしてくださいね。

夢中になったこと①:植物の世話

植物の栽培は以前からの趣味だった。ベランダや屋内で、観葉植物から果樹、多肉植物、食虫植物、ハーブなどいろいろ育てている。

休職してからは、朝起きて水を飲んだあとベランダに出て、植物に如雨露で水をやったり、葉に霧吹きしてやったりするようにしている。このゆるい時間はわたしの気持ちを鎮めてくれるし、例えば新芽を出したり実が日に日に大きく膨んだり、小さな植物の変化はわたしを爽やかで健やかな気持ちにさせてくれる。

一方で、休職前の数ヶ月は自分の心身を維持するのに精一杯で、本来だったら春先にやるべき植え替えや剪定作業を怠ってしまっていた。

植物の世話を後回しにしてしまったことはわたしにとっては心詰まりのひとつで、それを解消したいという気持ちもあった。なので、植物の世話に時間を使うようになっていった。

 

夢中になったこと②:Webの更新

いま、あなたにご覧いただいているこのBlogのことである。

もともとは適応障害に関する当事者目線での情報をまとめたい、回復の経過や、それぞれの時期にどんな感情になり、その感情とどう対峙したか、どんなことをして過ごすべきかなど、実用的な情報を発信したいという気持ちで始めた。(Blogを作ったきっかけ詳細はこちら

そして、はてなBlogには「PRO」という有償版があって、それを使うと様々なカスタマイズできることを先日知ったわたしは、その「PRO」版へ移行してみた。

PRO版になって初めて利用できる機能はもちろん試してみたいし、それ以前にサイトに紐付けている諸々のサービスも移行する必要があった。その作業に夢中になってしまった。(移行手続きの詳細については、Webのテクニカルなことに明るい方々が、わかりやすく、詳細に明確に説明したエントリーがたくさんあるので、そちらに譲る)

「デジタルマーケティング」という言葉がまだ普及しておらず、「Webマーケティング」という言葉が一般的だった10年ほど前、わたしはHTMLやCSS記述に関連する仕事に携わっていた。が、すっかり忘れていることに気づく。

もともと体系的に理解できていたのでもなく、業務に必要な部分を独学で身につけただけだし、現在の職場では直接的には必要なスキルでもないが、過去の自分が体得した知識が失われているのには少し落胆した。

「よし、これを機にちょっと思い出すかな。ついでに、Google Analyticsのレポートもカスタマイズして、見やすくしちゃおうかな」なんて、ワクワクしているうちはいいのだが、気づけばのめり込んでしまったのである。

情報発信するのはよい。情報をまとめる過程で、考えを整理できる。Blogという形で残すことで、あとで自身が振り返ったときに、今は気づけていない別の文脈でもって現在を捉え直すこともできるかもしれない。それが読んでくださる方の何らかの役に立てるならうれしい。

だが、カスタマイズはただのわたしの好奇心を満たすだけのものだ。もちろん読んでくださる方も、見やすいデザインのほうが喜んでくれるかもしれない。でもそれはオプショナルなものであって、Blogの本質ではないはずだ。

 

健全な日常を下支えする大切なルーチンが後回しにされる

そのようにして「やりたいこと」とのトレードオフとして、日常のルーチン、つまり「すべきこと」が割愛されていく。

 

例えば、ランニングや筋トレを2日ほどしなかった。

昨日、一昨日と筋トレもランニングもサボってしまったし、朝・昼・晩と習慣にしていたストレッチも、朝と夜寝る前だけになっている。勤務中と同じ歩数を目標にしているが、目標には当然届かない。

 

風呂が面倒で、シャワーを浴びるだけになる。風呂なんてスイッチ一つで自動で沸かせるし、さっと入って温まって身体を洗うだけならば、シャワーに要する時間に10分もあれば十分なのに、だ。

 

食事がおろそかになる。それでなくてもできる限り手を抜いて、楽にこなせるようにしていたにもかかわらず。

これまでは、手を抜いているとはいえ必要な栄養素はカバーできるように、気をつけていた。いろんな種類の野菜・タンパク質を、バランスよく、できる限り一定の時間帯にとる。

それがどうしたことか、一人で食べる昼食に至っては、簡単なシリアルを食べ、週末に作り置きした鶏ハムやらバナナやらを齧りながら、PCの前で作業しているようになってしまう。

 

そういう生活をしていると、夜ベッドに入る時間も遅くなりがちになる。

体を動かしていない分、体力は消耗していないのに、横になっても脳は興奮状態でモヤモヤとするのだ。

 

 

気づかせてくれたのは生活記録帳だった

こんな生活なので、生活記録帳にはチェックがつかない項目が増えていく。

↓まっとうな生活のリズムを取り戻すための生活記録帳はこちら

 

そして落胆する。

「あれだけ日々のルーチンが大切だって、自分に言い聞かせたのに、わたしまた忘れてる…」

 

今回の生活ペースの乱れ、本来たいせつにすべきことを後回しにしてしまっていることには、3日ほどで気づけた。生活記録があったからだ。

なかったら、アホなわたしはやりたいことに夢中になったまま、体のリズムをないがしろにして突っ走ってしまったはずだ。

 

没頭すること・夢中になることについて考えてみた

「夢中になれることがあるってしあわせ」だと一般的に言う。もちろん、夢中になれることが何もないよりは、ずっとしあわせだ。

加えて、何かに夢中になるというのは集中力がついてきたという証、回復進捗としても喜ぶべきことなのは、冒頭にも書いた通りだ。

でも、過ぎたるは何とやら。日々の大切なことを含めた優先順位も考慮して、ほどほどにしなければいけない。それをコントロールできないのであれば、その行為に「溺れている」だけだよな、とふと思った。

 

没頭するというのは気持ちいいが(きっとドーパミンがたくさん分泌されているんだろう)、その気持ちよさに溺れて流されてしまうのでは、ちょっとした中毒と変わらないんじゃないだろうか。

そして、回復期を経たあとに、また社会に復帰していこうとするタイミングで必要とされるのは、「夢中になり没頭すること」と「自分の身体を整える日々のルーチンタスク」とのバランスをコントロールする力なんじゃないか、と考えた。

 

仕事への向き合い方を改めて考えてみた

ふと、これまでの自分の仕事との向き合い方を思い返してみた。

というのも、特にBlog関連の作業に没頭しているときの自分の姿が、仕事しているときの自分の姿と重なったからだ。

 

PCに向き合っている姿勢自体も同じだが、「寝食を忘れる」ほど没頭して止まらなくなり「なんか気持ちいい」のに、作業の手を休めると「ああ、疲れた。やりすぎてしまった」と思う点においても、非常によく似ていた。そして、前日に「やりすぎてしまった」と反省したことを忘れ、翌日も再びそれを繰り返してしまう。

学習しない点は、アルコール中毒と一緒だ。「気持ちいい」のは、酒ではなく、没頭している自分に酔っているからかもしれない。

 

なまじっか対象が仕事だと質が悪い。成長のため、自己実現のため、生活のため、クライアントのため、チームメンバーのため。都合のいい言い訳がいかようにもできてしまうので、その罪悪感を抱きにくく、中毒だと自覚しにくいのだ。

 

わたしは「仕事中毒」だったのかもしれない、振り返ってそう思った。

夢中になれることがあるのはいいことだし、対象のひとつが仕事でも、もちろん構わないとは思う。ただし、対象に一時的に「没頭」するのでなく、継続可能な距離をとって対峙することができないと破綻する。対象が仕事ならば、サステナビリティが重要なのは尚更だ。

自分が、ほんとうにたいせつにすべきなのは何なのか。からだ健やかで、こころ穏やかな日常の基礎となるものは何なのか。日常のルーチンの重要さを改めて思った。

 

今回の没頭の理由は、回復期の「停滞感」

今回、やりたいことに没頭しすぎた理由は、回復に向けた「停滞感」だったように思う。

体力はついてきたし、日中の外出も近所ならば苦にならない。眠りが浅い日もあったりはするが、生活のリズムも整ってきた。そんな日がここしばらく続いてはいるものの、こころの”もや”が完全に晴れ切ってはいない。もちろん、自分が以前と同じ業務を同じ効率で処理できる姿など、全く想像できないままだ。

 

ここ最近のわたしは、目に見えるわかりやすい変化はなくなって、回復を実感できない状態が続いていた。その停滞感を払拭したくて、何かを達成したという形で無理やりに自信をつけようとしていたのではないか。

ああ、自分を認めてあげられる機会を増やしたかったんだな、と自覚した。

 

停滞しているときこそ、回復日記を見直す

そんなときこそ、回復日記を見直して振り返ってみるべきだと思って、過去の回復日記を開いてみた。

「回復日記」とは、その日のよかった出来事、自分を褒めてあげる出来事を最低3つ、反省点を1つだけ記録するというもので、休職して以来、ほぼ毎日続けている。

↓ 回復日記の詳細はこちら

 

1ヶ月前や数週間前の回復日記を見ると、自分を責めてばかりいる自分、泣いてばかりいる自分、自分の感情の波に翻弄され消耗して現実逃避のように眠る自分、ようやく日中起きていられるようになった自分、やっと夕飯を作れるようになった自分が記録されている。

改めて振り返って見ると、「ああ、わたしはちゃんと回復する途上にいる」と思える。回復までの道のりがあとどのくらいなのかは、正直わからない。波もあるし、停滞するときもあるけれど、少しずつでも着実に回復に向かっている自分を認めてあげられるようになる。焦っちゃだめだ、と少し客観的に自分を見られるようになる。

 

人間はすぐ忘れる生き物なのだ。

だからこそ記録が必要だが、記録は見返さなければ価値を持たない。活用されないデータに意味がないのと一緒だ。

 

バック・トゥ・ベーシック。

そう思って、今日は「やりたいこと」の時間を短縮した。いつもより念入りにストレッチをして、ちゃんと栄養のあるご飯を作って食べ、筋トレは省略したものの5kmランニングをし、お風呂にも入った。

これからしばらくの間は、「何かに夢中になっていないと自分を認められずに不安になる自分」を脱して、忘れてはいけない「ほんとうにたいせつな日常のルーチン」のバランスをとる訓練をしようと思う。

 

手始めに、生活記録表の就寝時間に倣って、そろそろ眠る準備をしようか。