自分のことに精一杯で、今年の父の日は何も贈れなかった。
そのことに気づいて、夜10時過ぎに父の携帯に電話したら、電話に出なかった。父の携帯は、父自身が電話するためのツールであって、誰かからの連絡を誰かのタイミングで受信するものではない。なぜなら、父は携帯を携帯しないから。おおかた、書斎のデスクの上にでも置きっぱなしになっているのだろう。
母に電話をしてみると「お父さん、いまソファーでうつらうつらしてるわよ。起こしてみる?」と母。
「気持ちよさそうに寝てるんだろうからいいよ、起こさなくて」と言って、近況報告をして電話を切った。
昔は仕事一筋の研究者だった。平日は子どものわたしが寝る前に帰宅することはごく稀で、友人の父が毎晩8時に帰宅すると聞いた時に「え、〇〇ちゃんのお父さんは、お仕事してないの?」と尋ねてしまったほどである。土日も職場にこもることもあったし、家で仕事をしてることもあった。
父は自分の仕事の内容を家族に話して聞かせる人ではなかったので、父がどんなことを生業ととしているのか、わたしは知らなかった。時々、一人風呂場で湯船に浸かりながら「くそー!」とか「ちくしょうっ!」とか大声で吐露していた父は、わたしにとってはなんだかいつも不機嫌そうで、何を考えているのかよくわからない存在だった。幼いときに仕事について尋ねた記憶もあるが、二言三言返されただけだった。まぁ、業務内容を幼児に説明するのは難儀に違いない。それにしても、はぐらかされたような印象を受ける対応に、子どもながらに少し傷ついたりもして、それ以降長いこと父との会話で仕事内容には触れることはなかった。
自身が社会人になってから、とても父のような情熱でもって仕事と対峙できるような自信が持てないと思ったわたしが、まだ現役だった父に「なんでお父さんはそんなに仕事に入れ込めるの。何がお父さんをそこまで仕事に向かわせるの。」と尋ねたことがある。けっこう勇気を振り絞っての質問だった。
「家族のためだよ」というような回答が返って来るのかとうっすら期待してもいたのだが、父の回答は「だって予算使って自分の好きな研究していいっていうんだからさー、そりゃ面白いよなぁ」という予想の斜め上をいくものだった。
「へぇ、なるほどねぇ」と返しながら、わたしには全くその感覚は理解できないと思った。わたしと父では仕事に求めるもの、向き合い方が全く違うのだな、ということだけはわかった。
わたしの前職は時々ではあるものの、クソ暇なタイミングが唐突に訪れることのある職場だったので、そういうときにふと父の名前をググってみたことがある。父の論文とか、父のインタビューとか、同分野の技術を研究を志す若者に対するメッセージとか、そういったものが掲載されているサイトが何件かヒットして、具体的に父がどんな仕事や研究をしていたのかをいまさらながら知った。
そのページをこっそりブックマークしたわたしは、それ以降どうしても仕事のやる気が起きないときに頓服薬のようにして、それを10分ほど休憩がてら眺めては、仕事に対する情熱というぼんやりとしたものを頭に思い浮かべて、自分に喝を入れたりしてもいた。
効果のほどは怪しいが、父の子として恥じない仕事をしなければ、と丹田のあたりに力が入るような気がしないでもなかった。
父は退職したいまも、民間研究機関から受託で仕事を受け、週に2日ほどは業務に当てているらしい。
昔から園芸と音楽が趣味だった父は、業務の合間に向かいの空き地を借りて開墾して、何種類もの野菜を作っている。土はコンポストで作った腐葉土と配合したものを使っているらしい。
定年の退職金で買い換えたスピーカーで主にクラシック音楽を1時間堪能して、業務なり農作業なりを開始するのだそうだ。(主にと書いたのは、時々レディガガなんかも聴いているから)(ちなみにそれまで使っていたスピーカーはJBLの旧型スタジオモニターで、父が独身の時に最初のボーナスで手に入れたものだったらしい。いまはわたしが引き継いで、大切に使わせてもらっている)
来年古希を迎えるが、家庭菜園にしては随分広い畑の農作業を一人で管理し、毎日の筋トレを欠かさない。見た目にもわかりやすい派手さのあるアクティブなライフスタイルよりは、地味でストイックなプロセスの継続が実を結ぶようなものを好む父に、研究職はうってつけだったのかもしれない。
GWに一泊二日で実家に帰ったが、父はふとした隙によく眠るようになっていた。例えばソファーで談笑していて会話が途切れた瞬間、食後にお茶を飲んだ後、テレビが退屈な情報を流しているとき。
ソファーに腰掛けたままこっくり、こっくりと船を漕ぐ姿を眺めて、父も歳をとったんだなぁと、しみじみと思った。
今回GWに帰省した時に仕事の調子はどうかと父に尋ねられた。
この時点ではわたしはまだ休職していなかったが、担当しているプロジェクトは早くも混迷しつつあり、「まぁ、忙しいよ」くらいの軽い返答で留めるつもりだったのだが、自身の置かれた困った状況をぽつりぽつりと話し始めたら、止まらなくなってしまった。ずっと誰かに吐き出したかったんだと思う。
クラウドシステムのクライアント向け導入というわたしの仕事は、父にとってはおそらくまったくの畑違いで、出てくる単語もよくわからなかったに違いないと思うのだが、特に話を遮るでもなく、父は話を聞いてくれた。
そして、わたしの話が終わると、父は口を開いた。「まぁ、これは笑い話として聞いて欲しいんだけども。」と前置きした上で。
「お父さんの前の職場でも、研究の分析とかするためのシステム開発をベンダーに依頼するわけ。で、ローンチしてもバグだらけなわけ。でさ、システムも5年とか10年で減価償却して入れ替えるわけ。その段階で前のシステムのバグがまだまだ残ってるんだよね。入れ替えのタイミングまでに100点になったのは見たことない。それでも、入れ替えてみると新しいシステムは前のシステムよりは、なんぼかマシなの。それでいいんだよ、システム導入なんて。クリティカルなバグは対応してくれなきゃ困るけど、現実的なラインで切って、60点かなー、70点かなー、でもいっか!ってシステムてそんなもんでしょ。100点狙ってたらキリがない」
違う文脈で聞いたら、開発者へのクレームのようでもあるが、この話を聞いてわたしは笑った。父の心遣いに、ふふふ、と頬が緩んだ。
「冗談なんだけどさ、あまり面白くないな、はは」という父に「面白いよ、ありがとう」と笑い返した。笑えたのは久しぶりな気がした。
ひとつひとつは地味なプロセスでも、コストと天秤にかけて妥当で可能な範囲でベターな選択を継続していけば、ベストでないにしても今日よりはよい明日へ向かえるのだ。
「お父さんなんてさ、何十年もかけて〇〇について研究してきたのに、まだ〇〇の原因は何なのか、わかってないからね。世界の誰も原因を特定できてない。ひょっとしたら答えなんてないのかもしれない」
そう言った父のこころによぎったのは、なんだったのだろうか。諦めなのか、遣る瀬無さなのか、それとも変わらない情熱なのか、わたしにはまだまだ知る由もない。
今年は何も贈れなくてごめんね。
お父さん、あなたはわたしの知らないことをたくさん知っている。長生きして、わたしやその他の若い人たちに、あなたの智慧を授けてほしい。もし、それがあなたの喜びにつながるのならだけども。
正直、あなたの冗談は大概つまらないけれど、ときにあなたの慈悲と滋味に富んだ冗談は、若い世代の生きる力になるんですよ。
お父さん、いつもありがとう。