年末に本棚の整理をしていた際に、6年ほど前の日記を見つけた。
当時は仕事の昼休み中にひとりで近所のカフェに足を運び、ランチをつつきながら日記をつけるのが習慣だった。
日記には、5年後、10年後にどんな暮らしをしていたいか、どんな仕事をしていたいかも書かれており、それを実現するための今年の目標を考えて、さらに月毎に目標を設定していた。
いちおう四半期だか半年だかに一回、目標の達成度合いを振り返って、現実的な目標に修正したり、さらにストレッチした目標を立てたりした形跡もあった。(真面目か)
6年前のわたしは、10年後に業務で英語を使う可能性を考えて、その年の目標の一つに英語力の向上をかがげていた。
その日記は英語で書かれていて(今見直すと、スペルはもちろん、熟語の間違いなんかも多いのだけれど)、当時のわたしは自分で目指すべき方向を定めて、そのために自分がすべきことを自分で設定していたのだな、と思った。
過去の日記帳を開いたことをきっかけにして数年を振り返った時に、ふと思った。
休職した時期と前後して、わたしは自分が目指すべき方向性を曖昧なままにしてしまっていたような気がする。
どうしたいかが見えないから、今の延長線上に納得のいく自分がいる像が結べずに、不必要なことに力を注いで消耗してしまう。注力している間も「この状態を続けることで、本当により良い自分に近づけるのか」に自信が持てないから、通奏低音のように不安を抱き続ける。
曖昧なままにしていることには気づきながら、その害については理解せずに軽視してしまっていた。「何をすべきか」が明確でない状態は、思っていたよりもずっとわたしにとっては大きなストレスだったんだ、きっと。
今年40を迎えるわたしなので、6年前ほど無邪気に10年後を考えられないかもしれない。それでも、日々の暮らしの中で「心地よい」と感じられる瞬間の優先順位をあげて、「やりたくない」と思う自分の素直な感情を汲み取って、日々のあれこれを選択していけることはできるはず。
5年後、10年後、さらにその後の人生をどのようにしていきたいのか、自分が大切にしたいことを、改めて考えてノートに書き出してみたりした2020年1月初旬だった。